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レコーディングが行われたのは、夏の暑い日だった。
収録曲10曲の録音からマスタリングまでを、6日間という驚異的なスピードで行った。
歌手としての初めてのレコーディングが、自らのプロデュースで行われるという事は、
とても幸せな事であると同時に、それは様々なプレッシャーと戦う行為でもあった。
しかしその事を決めたのは自分。これは自分が音楽家として自立する第一歩だった。

1997年にジャズ・ヴォーカリストとしてデビューし、2001年から本格的に
オリジナル曲を制作、"sachiyo sings singapore"ライブがシリーズ化して、
これまでに計7回のライブを演ってきた。
実に色々な人々からCDを求める声を頂いたが、その度に「まだです」と答えていた。
この「まだ」は「必ず出す。でも今はまだ早い。」という意味合いを持っていた。
では、いつになったらCDを作れるのか?
それは、オリジナル曲の精度も、作詞作曲のみならずアレンジも、歌唱力も、表現力も、
形に残してもよいものと、自分が自分にOKを出せる時と決めていた。
もちろん自分が自分に100%OKを出せる時なんて一生来ないと思うけれど、
少なくとも「形に残す」為の様々な事柄の最終判断を下せなければ、CDなんて作れっこない。
大きな自信はないけれど、今ならやれるのではないか、今作るべきなのではないか、
そう思えたのが今年の3月だった。

CDを制作する事を決めて、その一番要である「音作り」の共同ディレクターを
ピアニストの黒木君とベーシストの増根さんにお願いした。二人とも私の音楽の
よき理解者であり、ライブのレギュラーメンバーとしてもお馴染みの人達だ。
プレイヤーとしても、プロデューサーとしても、多くのレコーディング実績を
積んでいる彼らは、悩んだ時、迷った時に本当に心の拠り所になってくれた。
5月に青山のデニーズで、3人でCD制作について話し合った所から始まって、
再三に渡るあたしの相談の電話とe-mail攻撃に、時々嫌気がさした事だろうけど(笑)
色々なアドバイスをくれた。アドバイスと言っても、二人ともかなりあたしを突き放す。
方法論の相談には乗ってくれたとしても、結論的なものの言い方は絶対にしない。
その事が、苦しくとも全ての最終決断は自分が下さなければならない、
それがプロデューサーなのだという自覚を改めて私に持たせてくれた。

全体のコンセプト、収録曲10曲を決め、ミュージシャンの人選をするにあたっては、
自分と同じ言語を持つ人達でなくてはならないと思った。
私の作る譜面は、頭から書いてある部分と書いてない部分がある。
音のイメージや方向性、土台のアレンジを決めて、絶対的にこう演奏して欲しいという
部分は書くが、書いてない部分がほとんどだ。
基本的に、そのパートのプロに演奏方法は任せた方がよいと考えてはいるものの、
あたしの音楽のイメージや感性に共感して貰った上で任せられる相手でなくてはならない。
ジャンルやスタイルも様々なので、その全てに精通すると同時に、
あたしの音楽に含まれる民族的な要素も理解できるミュージシャン。
ディレクターのお二人に加えて、ギターの須古さん、パーカッションの岡部さん、
そして今回初共演となった、サックス・フルートの鈴木さん、二胡・ヴァイオリンの
土屋さんに参加を依頼した。ありがたい事に皆さん二つ返事で、快く承知してくれた。

メンバーが揃った所で、各曲の楽器編成を決める。
アルバムは各曲が独立した性質を持ちながらも、総合して一つの物語にも
なっていなくてはならない。どんな編成にしたとしても、演奏方法を心得ている彼ら
だろうけど、アルバムの中でその曲が欲している楽器編成というものを考え抜いた。
初共演の楽器もある中での判断は、ひたすら自分の「想像力」だけが頼りだった。

そして「形に残す」為の、一曲一曲との戦いが始まった。
これまでライブを演りながら、その度に構成やアレンジを変え、コードや歌詞さえも
変える事があったが、アルバムの為の一つの形を決めなくてはならない。
何度も何度も歌詞を吟味し、漢字一つでさえも広辞苑や漢語辞典を比較し、
日本語以外の外国語の発音についても、正確に発音出来るよう努力した。
" infant eyes"や"再見"に関しては、作詞のアドバイザーでもあるイーリンさんが
現在アトランタに住んでいる為、繰り返し国際電話をして発音の特訓を受けた。
" Bengawan Solo"に関しては文書によって歌詞が違う為、非常に悩む所だったが、
原作詞者であるGesangの歌詞を土台に、音の綴り方を決め込んだ。
幸いマレー語に関しては、マレー人の友人にも発音のお済み付きを貰っていた。
" Asia Major"については、原作の歌詞がDick LeeによるSinglishで書かれていたので、
アレンジは全く違えても、発音はSinglishで歌ってみようと思った。
メロディーやコードについても一から洗い直し、本当にこのメロディーでよいのか、
このコードでなくてはならないのか、自問自答を繰り返した。
自分の歌を何度も録音して聞いて、全体のトーンを考えてみてKeyを下げた曲も何曲かあった。
もっとも大事な歌唱法においては、自分の声を今一度見つめ直し、
奇抜な歌い方やフェイクなどは極力避け、一つ一つ丁寧にシンプルに歌い上げ、
「基本の歌」というものを残す事を心掛けた。様々な角度から熟考した結果、
このアルバムの形の残し方は「瞬発力」ではなく「耐久性」であると思った。
派手さはなくとも「何度聞いても飽きる事はない音楽」を追求しようと思った。

全ての土台案が出来上がった所で、全員でのリハーサル。しかしたった1回切り。
1回のリハーサルで一生残るアルバムを作るという事は、リハーサルの進行一つでさえも
緊張感溢れるものだった。限られた時間の中で、基本の方向性だけを決め、あとは本番の
お楽しみなんて芸当が出来たのも、全員がジャズ・ミュージシャンでもあったおかげだった。

レコーディングは、ライブ形式のいわゆる一発録り。
ライブの緊張感そのままに録音したかった事と、全員が一発入魂タイプで、
このスタイルの方が持ち味を生かせると思ったゆえの録音方法だった。
録音は池尻大橋と青山にスタジオがある、プライムサウンド・スタジオフォームで行われた。
最新設備が整った実に贅沢なスタジオで、初めてのレコーディングが出来る事を幸せに思った。
円形状から成るスタジオのど真ん中に、岡部さんが楽器を広げて、
それをぐるりと取り囲んだ形で、それぞれのパートが入る小ブースがある。
演奏する際、お互いの顔を見る事は出来ない。
メンバーそれぞれの状況を映すモニターは各ブースに備えられているが、編成が多い場合は
皆小さく映ってしまうので、実際ヘッドフォンから流れてくる音のみが頼りだった。

録音は、終始和やかなムードと緊張感とのバランスが、程よい形で進められていった。
自分の立場上、自分の歌が原因で演奏を止める事だけは、絶対にやってはならないと
心に誓っていた。その決意のプレッシャーからか、決まって全ての録音前日は一睡も出来ず。
演奏は安心して任せられるメンバーとは言っても、最終的な音の決定権は自分にあった為、
自分の歌を確認しながら、メンバーそれぞれの音を同時に聞き分けなくてはならなかった。
ライブでもそれを行って来たはずだけど、録音となるとそれはかなりのプレッシャーを伴った。

あたしにとって心強かったのは、唯一あたしの場所から見える位置に岡部さんが居たと言う事。
女性的な音色の持ち主が多い中で、一人男性的な音色で、曲の土台を支える大黒柱的な存在の
岡部さんとのアイコンタクトは、何よりの心の支えだった。
その風貌から(?)とても怖い人と思われる彼は、実はとても優しい方で、録音初日は
シンガポールのTシャツを着て来てくれて、あたしにとても気を使ってくれた。
自分の音に対して大変潔い方で、「最終的な絵」が彼にはちゃんと見えているのだろう、
言葉少なに黙々と音を重ねていく様子に、プロフェッショナルとは
こういうものだという姿を見せられたような気がした。

終始笑顔と冗談であたしをリラックスさせて下さったのは、鈴木さん。
甘く優しい音色の持ち主というあたしの予想を遥かに超える演奏を、
参加した曲全てに残してくれた。
ご自分の録りを終えてもスタジオに残って、一緒になって音を追求してくれた。
時に判断に困り悩むあたしに「自分の頭で鳴っている音を信じなさい」と言って下さり、
この言葉は最後まであたしの基本指針になった。

何度も共演していくうちにすっかりあたしのお父さん的存在になって下さったのは須古さん。
神経質に思い詰めるあたしに「ちょっと完璧主義過ぎないかい? 形に残るから、
永続的に考える気持ちはわかるけれど、単純に"2003年の8月のsachiyo"を切り取った作品と
考えればいいんじゃないかな?人間進化していくのだから、そんなにストイックになって
完璧な音を残そうとしなくてもいいんだよ。」この言葉にどれだけ救われたことか...。
優しい言葉とは裏腹に、録り直しを一度もせずに演奏を終えていった彼こそが完璧だった。
彼自身でしか作り得なかった温かみ溢れる音色は、アルバムにきちんと刻まれている。

超過密スケジュールの為夜中から録音に参加し、外見も演奏も美しい印象だったのは土屋さん。
今回夜中作業ゆえ彼女の写真を撮り損ねて、美しい彼女の写真をアップ出来なかった事が残念。
ヴァイオリンと二胡の両方を演奏できるミュージシャンは、現在日本人女性では
彼女ただ一人という事だ。二胡は中国文化の中で育ったあたしにとっては大変馴染み深い
楽器だったが、実は共演は初めてで、あたしの頭だけの知識で音を作り上げていくのは
かなり難航した。その為、彼女と共演経験の多い黒木君に終始付いて貰って、
一緒になって音の判断を行い、ヴァイオリンについては完全に彼にお任せした。
彼女独特のフレージングや音の揺らめきは、アルバムに鮮やかな花を添えてくれた。
日本のあらゆるメジャーシーンに引っ張りだこの彼女は、さぞ気苦労が多いだろうと思いきや、
思いのほか飄々としていて「あたし、あんまり悩まないのよ」と帰り道にぽつっと言った。
小さい事にくよくよ悩み過ぎるあたしは、見習わなくてはいけないと思った。

そしてディレクターのお二人、増根さんと黒木君については前述の通り。
増根さんは自己のビッグバンドのリーダーでもある事から、バンドを引っ張っていくと
いう事はどういう事かという事を教えてくれた。かなり厳しい言葉を連発しながらも、
「僕は全面的にあなたの音楽を支持しているし、こちらがどんな風に演奏しても対応できる
歌手としても信頼している」と嬉しい言葉も言ってくれた。
神経質な割にちょっとおっちょこちょいな所もあって、演奏中は笑ってしまう場面もあった。
ライブではウッドベースでの共演が多かったので、エレベでは新しい魅力も知る事が出来た。
いつも色々と心配してくれ、「あれはどうなった?」と、しょっちゅう携帯でe-mailをくれた。

10曲全ての曲にピアニストとして参加し、一番長時間お付き合い頂いたのは黒木君。
あたしはピアノも弾く人間なので、具体的にこう弾いて欲しいというリクエストが
一番多かった相手で、その全てにおいて期待以上の音を表現してくれた。
メンバーの中では一番付き合いが長く、デビュー当初のまだ何にもわかっちゃいない頃からの
あたしを知っているので、CDを作る事を決めたと言った時には「おっ遂にか!!」と言って
喜んでくれた。元々彼の楽曲である"infant eyes"に中国語の歌詞を付けた所から、
あたしのオリジナル曲作りは始まったので、実はとても感謝している。
レコーディングを行うに至るまでは、血も涙もない言葉を連発されたけど、
いざレコーディングが始まってからは「みんなの演奏何か鼻くそほじって聞いてろ」なんて
冗談ばかり言っていたのは、今思えば彼なりの優しさだったのかもしれない。

全ての録音を終えた所で感じた事は、ミュージシャンそれぞれの音楽に対する愛情の深さと
自分の音に対してのこだわり、プライド、執念の深さだろうか。
執念深いと言っても、ほとんどの曲を2〜3テイクしか録っていない。
一発の演奏に掛けるその集中力たるものは、圧巻であった。
彼らの紡ぎ出す音色は、彼らが歩んできた人生そのものだった。
あたしより何倍もの実績と経験を持つ彼らが、未熟なあたしのディレクションを尊重した上で、
曲の内容を非常に高いレベルまで引き上げてくれた事は、本当に感謝してもし尽くせない。

何より忘れてならないのは、今回のレコーディングからマスタリングまでの全ての
エンジニア担当の辻さん。黒木君のCDを聞いて彼の音作りのセンスを信用していたので、
ぜひにという事でお願いした。実際、彼の仕事ぶりは驚嘆に値した。
録音における音の立て方、バランス感覚にまず驚いた。最初の録りを終えた後に、
ミキシングルームに戻ってプレイバックして貰った時に、難かしい事は言えないのだが、
「あっ、間違いない」と瞬間にして思った。一発録りの場合、後になって音の施し方を
設定するよりも録音時のセッティングの仕方が重要になってくる。録り段階でこれだけの
音が出来上がっていれば、このCDはもう間違いないものが出来ると確信していた。
エンジニアは、ミュージシャンへの接し方や気配りも大切だ。常に冷静でこちらの難題にも
文句一つ言わず、ご自分の立場をよく心得ていらっしゃる姿勢には本当に頭が下がった。
アシスタントエンジニアの笹本さんと浅井さんについても、然り。
いつも笑顔を絶やさず我々の要求にスピーディーなプログラミングで応える笹本さん、
可愛い顔をして確かな技術を持っている凄腕の浅井さんにも多謝。

ミックスダウンは、2日で10曲を行うというとんでもない作業だった。
1日目のスタートはお昼の13:00から翌朝の7:00まで。
2日目のスタートも同様に13:00スタートで終わったのはなんと翌朝の9:30!! 
終わった瞬間に全員死んでしまうのではないかと思った。
まず、録音した音を家に持ち帰って音のバランスを吟味し、それぞれの曲のイメージを
ありとあらゆる表現を使って辻さんに伝え、それに沿って彼が音を丸くしていく。
その作業の様子は、隣で電話が鳴ってても聞こえないのじゃないかと思う位の集中力だった。
ミックスからアシスタントに付いた桧谷君は、若手ながら頼もしく、
辻さんとの連係も見事だった。
泣いても笑っても音の最終形を決める最後の作業がミックスダウン。
これを終えたらもう後戻りは出来ない。音にのめり込み過ぎて、途中何がよいのか
訳が分からなくなる瞬間も何度もあった。この段階になって、録音時にもっとこうすれば
よかったと気付く点もあり、もう色んな事を言い出したら切りがない。
たくさんの人が聞くのだと、第三者の存在を意識し過ぎて、音が決められなかった時に、
1日目のミックスダウンに顔を出してくれた黒木君が「なぜアルバムを作ろうと思ったのか、
原点を思い出してごらん。」と言ってくれた。
もともとアルバムは「自分の音」「自分らしい音」を確立する為に作ろうと思ったのだ。
他人がどう思おうと関係ない、自分がこれだと思った音を信じればよいのだ。
そうは言っても、自分がこれだと思う音を家に持ち帰って、カーステレオで聞き、
家のどうでもよいCDプレイヤーで聞き、ヘッドフォンで聞いた場合、生で聞いた場合、
TVを流しながら聞いた場合、料理をしながら聞いた場合と、場面を変えて音を聞き比べ、
平均化してよい音を考え抜いた。もうこの段階になると、頭がめちゃくちゃだった。

そして最終工程であるマスタリング。
音の最終形が決まった時に、元々考えていたアルバムの曲順をもう一度組み立て直した。
曲間秒数も0.1秒単位で決め、全ての曲の音のバランスの総仕上げを行い、
アルバムのマスターCDを作る。最後の最後まで気が抜けない。
ミックスダウンよりは簡単な作業とは言っても、結局一日作業だった。
本当に最後の瞬間まで、辻さんはこちらの無理な要求に応えてくれた。
「プロフェッショナルというのは、限られた制約の中でどれだけの結果を出せるか
という事に尽きると思いますよ」という彼の言葉は、彼自身が自ら体現していた。
初めてのレコーディングはわからない事だらけで、恐らくこちらがやらなくてはならない
宿題もたくさんやらせてしまったに違いない。心からお礼を言いたい。

全工程を終え、マスターCDがぽんと出て来て、桧谷君の「生まれましたよ!!」という言葉を
聞いた時、今までの全ての悩みや迷いが、まるで憑き物が落ちたみたいにスッキリしたのを
覚えている。正直に言うと、レコーディングを終えた時に、自分のあまりの未熟さ加減に
家で何度も泣いた。形に残すのは今だと思ったのに、まだまだ自分には早すぎたとさえ思った。
緊張やプレッシャーに押し潰されそうになり、アルバムが出来上がる瞬間なんて、
遠い未来の事のように思えたし、やり抜き通すなんて無理だと思った。
けれど、CDは完成した。
それを可能にしたのは、ミュージシャン達の素晴らしい演奏があった事、
たくさんのスタッフのご協力があった事、そしてレコーディングからマスタリングまでの
全工程すべてに立ち合って音作りをした、事務所の社長でもあり弟でもあるKen君の存在の
おかげだった。何度もくじけそうになるあたしを叱咤激励し、時に暴走するあたしを冷静に
受け止め、朝から晩まで毎日毎日一緒になって音の見極めをしてくれた彼が居なければ、
絶対にこのCDは出来上がる事はなかった。同じシンガポールで育って、
あたしの音楽の感性を十二分に理解してくれる彼の存在は本当に大きかった。
またミュージシャン達の彼に対する態度を見ていると、彼のやり方は恐らくどんな事務所の
人間よりも、誠実だったのかもしれない。そんな弟の存在をあたしは誇りに思っている。
このアルバムは姉弟の合作でもあった。

CDが出来上がった今思う事は、これを作る前の自分と今の自分は明らかに違うという事だ。
瞬間にして音が流れてしまうライブばかりをやっていると、楽しい楽しいばっかりの
ミュージシャンで終わってしまう。CDという「形に残す」事への全力の戦いは、
歌手として自分自身の歌を見つめ直す、かけがいのない作業でもあった。
恐らく今、世界中の誰よりも自分の歌の長所、短所を知っているのは自分だと言い切れる。
その全てを潔く受け止めて、さらによい歌い手になれるよう努力していきたい。
このCDを作った気持ちを忘れずに、このアルバムを新たなスタートにして、
歌手として、クリエイターとして、また新しい音楽の道を切り開いていこうと思っている。

このCDの制作に関わったすべての人達に心から感謝します。
thanks!! 謝謝!! terima kasih!!...そして本当にありがとう。

sachiyo

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